2011年9月1日【十勝・帯広で矯正なら!おびひろアート矯正歯科】
侘(わび)茶(ちゃ)の完成者で千家流の開祖、千利休は堺の魚屋(ととや)の豪商、田中与兵衛の長男与四郎として生まれた。祖父が千阿弥(せんあみ)であったので千家とも呼ばれた。七歳から茶湯を習い、武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事した。織田信長の茶会で濃茶を点て、御茶頭(ごさどう)になった。信長の死後は豊臣秀吉の御茶頭となり、大きな権力を持つようになった。
天下一の茶湯の名人・千利休は七十歳で主人である秀吉から切腹を命じられる。その理由には「秀吉毒殺陰謀説」、「キリシタン説」、「朝鮮出兵に反対した」、「茶の湯の思想的対立」などさまざま言われているが、有力な説は「大徳寺山門に利休の雪見木像を安置させたこと」と「茶湯道具の売買での不正」の2つと言われている。さらに、その背景には利休の強力な擁護者であった秀長の死により、石田三成など反利休派による画策や、町人あがりの茶湯の巨匠利休が天下人秀吉の目ざわりになってきたとされている。しかし、秀吉は利休の処罰を悔やみ、四年後に千家の再興を許可している。