院長一言2012年12月16日【十勝・帯広で矯正なら!おびひろアート矯正歯科】
太公望という言葉はかなり前から聞いていましたし、その言葉は釣りの巧い人、名人と呼ばれる人の代名詞ぐらいにしか思っていませんでした。最近、宮城谷昌光の歴史小説を読んで、自分の無知ぶりに恥じ入りました。
太公望(名は望)は今から約三千年前、周を建国した文王の賢臣です。彼は姜族(きょうぞく)の族長の息子で、周の前の王朝である商(殷(いん)とも言う)の軍隊に父親を殺されてしまいます。姜族は馬や羊を飼う遊牧民族で、好戦的でないためにしばしば奴隷狩りの対象になっていました。命からがら逃げた望はその後、父親の敵である商の受王(紂王とも言う)を討つために同じ姜族の仲間と沢山の苦労を重ねて復讐の計略を練り、そしてあらゆる土地を回り、商を滅ぼすための仲間達を探し回りました。商の末期は明け暮れる戦争や、「酒池肉林」と呼ばれる王朝の驕奢ぶりのために民衆達は疲れ果て、大きな不満を抱いていました。そのような時期に西国の周の文王と望とが協力し、ついに暴君である受王を倒すのでした。
そんなわけで、釣り名人とは関係ありませんでした。